女装する女

女装する女 (新潮新書)

女装する女 (新潮新書)


最近、歳をとってきているせいか、「ありえない」と思うことが多くなってきました。

そんなとき、その物事を否定するのではなく、「自分が世の中についていけていない」と思うようにしています。

だって目の前でおきていることは全部事実なんですから。


で、今回この「女装する女」を読んだわけですが、やはり時代は自分の一歩前を進んでいました。


端的に言うと、安野モヨコの「働きマン」の著者の捉え方に表れています。

働きマン」のテーマを、働く女性の「男スイッチ入ります」ではなく、「女スイッチ入ります」の方にこそあるといっています。


■「働きマン」は、これら女装する女の実態を極めて正確に描いた名作

■原作が持つ仕事女のリアリティーは、主人公が彼氏とデートしたり、イケメンと会ったりするときに着飾り、女っぷりをあげるための「女スイッチ入ります」の方にこそあったのである。


働きマン」は私も大好きなマンガですが、確かに仕事バリバリの場面よりも、仕事がないときに出てくる感情の流れなんかを共有できるのがおもしろいところだと思います。


でも、この現象って、女だけでなく男でも、だいぶ前からあらわれていることだと思いませんか。

今年は雑誌「mini」で草食男子の特集が組まれたし、ブラジャーする男、小便を座ってする男など、いわゆる男性像からはかけはなれた男性が世の中に増えてきていることは確かです。


だから、やはり世の中は男性化する女性ではなく、男性も女性も女性化の方向に進んでいるのではないでしょうか。



■子供の遊びを、実はずーっと続けたい

恋愛もセックスもギャンブルも、大人の快楽特権が「実はそんなにオモロイものでもなかった」ということがバレバレになった今、最後に残った最大消費タームは、子供とともに子供の時間を取り戻す楽しみなのである。


■おわりに

現在、女性が男性化している、と、よく言われるが、私自身はあまりその実感はない。

高度消費情報社会の状況下では、女性を女性たらしめていたいろんな幻想の鎧がひとつひとつ外されていくわけで、外された後にむきだしになった本体そのものは実は思ったよりもたくましく、自由で、とんでもない個性と欲望が普通に存在したというわけだ。

しかし、そこのところが肥大しすぎると今度は社会の方がおじけづいてしまう。

そうなると、コミュニケーションであるとか、生きていくこと自体に問題が生じてしまうので、女性たちは〝意思〟として、あらためて、鎧を付け直す、というような面倒くさい行為にも手を染めている。







女装する女 (新潮新書)

女装する女 (新潮新書)